文章練習

あきたらやめる

ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

書名: 『タタール人の砂漠』(岩波書店
著者: ディーノ・ブッツァーティ
訳者: 脇功

 読みながら “Failing to prepare is preparing to fail.” や “Life is what happens while you're busy making other plans.” という格言を思いだした。

 期待を内に秘めて暮らしに埋没し、決断をずるずる先延ばしにするうちにも、月日は容赦なく過ぎ去っていく。待っていても確実にやってくるのは死だけであり、能動的な行動と「損切り」こそが大切だと痛感させられる。しかしそうは言ってもままならぬもので、やはり何かと逡巡してしまう。けれどもそうこうしていると手遅れになりかねない。耳が痛いし頭も痛い、と内なるドローゴが叫ぶ。

 折にふれて読みたいような読みたくないような名作。

書く練習

 文章を書く練習をするために、ブログを開設した。

 理想とするのは、リーダビリティ(可読性)の高い文章だ。しかし「リーダビリティ」という言葉自体のリーダビリティはどうなのか。そんなことも気になってくる。要するに、すらすら読めてすんなりわかる文章を書きたいのだ。たとえばセルゲイ・ドヴラートフのように。ほとんど誰にもわからない例示なのはわかっている。詳しくは、ドヴラートフの『わが家の人びと』を読んでほしい。

 書くときに気をつけているのは、一文一文を長くしすぎないことだ。そして語句や読点の位置に配慮し、修飾・被修飾の関係を明確にすること。そうすれば文意はおのずと明快になる。
 ひらがな・カタカナ・漢字の使い分けも、読みやすさに影響する。具体例を挙げよう。粗野な言い回しの典型である「おんなこども」を「女子ども」と表記した場合はどうか。うっかり「じょしども」と読んでしまうと、発言者が小学生の男子みたいに思えてくる。「このあいだたべた」を「この間食べた」と書いた場合はどうだろう。「このかんしょく……」と誤読しそうになるし、「このあいだ食べた」と書いたときにくらべて理解するのに時間がかかるはずだ。あるいは、「そのときまもなく」を「その時間もなく」と表記したらどうなるか(ただし読点でも解決できる)。カタカナの例も考えようと思ったが、ろくなものが浮かんでこないのでやめておく。とにかく、ひらがなのみではよみづらいし、カタカナノミデモヨミヅライ。ソレコソ、ムカシノデンポウミタイダ。ひらがな・カタカナ・漢字の組み合わせによって、日本語は読みやすくも読みにくくもなる。やはり表記の使い分けは重要なのだ。

 単調さを避けたい気持ちもある。文末に変化をつけたり換言したりするのはそのためだ。便利な体言止めや「こと」「もの」「という」を濫用しないように意識してもいる。しかし、それが文章の勢いを殺しているかもしれない。
 勢いは大切だ。だからといって、感情の赴くままに書きつづれば、深夜にしたためたラブレターみたいになってしまう。とはいえラブレターを書いた経験はないのだが。それはともかく、ある程度は寝かせて推敲するのが無難だろう。ただし修正を重ねすぎると、死んだ文章になりかねない。どこでバランスをとるのか。そこが一番の悩みどころかもしれない。ジョン・ファンテの『塵に訊け!』のように、感情の起伏が心地よい流れを生みだすこともあれば、プリーモ・レーヴィの作品のように、飾り気のない冷静な筆致が強い説得力につながることもある。目的に応じて切り替えられればいいのだが、パーソナリティと切り離しがたく結びついていたりするので、なかなかそうもいかない。

 はたして自分の文章は読みやすいのだろうか、と疑問が湧いてくる。そもそも、その質を著者自身が正当に評価できるのか。もっとも信頼に値しない読者なのではないか。徹底的に推敲し、一語一語を執拗に調べたりすれば、校閲の仕事はそれなりにこなせるかもしれない。日を変え、気分を変えることで、ちょっとした編集者にだってなれるかもしれない。それでも、信頼できる読者にはなれないのではないか。あまりに知りすぎているし、どこまでいっても贔屓目にしかならないからだ。もちろん、文字どおりの意味で読める日本語にはなっている。しかしテンポやリズムの快・不快、表現の巧拙などは、さっぱり理解できない。手を加えるたびに、本当に良くなっているのかと考える。より良くしようとするあまり、より悪くしていないか、と。
 これは繊細さではない。ただただ神経質なだけだ。こうした気質も、ありあまるほどの意欲や根気と結びついていれば悪くはない。それどころか良い方向にさえ機能しうる。しかし私の気苦労は何も生まないだろう。かつて人類は小舟で大海に漕ぎだしたというのに、布団から抜けだすのさえ億劫なのだから。