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ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』

書名: 『べつの言葉で』(新潮社)
著者: ジュンパ・ラヒリ
訳者: 中嶋浩郎

 ベンガル人の両親をもつアメリカ育ちの成功した作家が、アメリカからイタリアに移住して、イタリア語、つまり「べつの言葉で」作品を書く――興味深くはあるものの、なぜそんなことをするのだろう?

 それはどうやら、イタリア語への愛情に加えて、変化への希求が関係しているらしい。ジュンパ・ラヒリは変わりつづけることにこだわっており、人間としても作家としても自分を変えたい、との思いが原動力のひとつになったようだ。とかく変化を嫌ったという母親とは対照的だ。
 アメリカからイタリアに移住するのは、イタリア語を身につけるためであり、生きかたを変えるためでもある。考えようによっては、両親の移民としての人生をたどる形にもなっていて、そこがまたおもしろい。
 「べつの言葉」への傾倒は、著者のなかで長くつづいてきた、ベンガル語と英語の対立ともかかわっている。両親の言語で「母」たるベンガル語。生まれ育った土地の言語で「継母」たる英語。どちらからも離れて、新たな言語を自分の意志で学ぶのは、要するに自立の道なのだ。

 書くこと、なかでも書いたものを徹底的に推敲することは、内省的な行為だ。曖昧だったことが明瞭になり、知ったつもりになっていたことを、どれほど知らなかったのか知るきっかけになる。
 新しい言語の勉強にうちこみ、その言葉で表現することもまた、内省的な行為だろう。第一言語以外では、修辞による粉飾が難しくなる。堪能でないがゆえにより直截な物言いしかできず、それが結果的に身も蓋もない明快さにつながり、自分がじっさいに何を主張しているのか明々白々になるはずだ。自らのレトリックにほかでもない自分自身がごまかされる、なんてこともなくなるだろう。あるいは第一言語ではないからこそ、率直に言えることだってあるかもしれない。

 表現しようと苦心すること、とりわけ新たな言語でそうすることは、自身のなかのさまざまなことをあきらかにする。これまでは見えなかった一面、新しい自分が顔を出すといってもいい。その意味で「べつの言葉」の習得とは、一種の変身なのだろう。