文章練習

あきたらやめる

アレクサンドル・ゲルツェン『向こう岸から』

書名: 『向こう岸から』(平凡社
著者: アレクサンドル・ゲルツェン
訳者: 長縄光男

 『向こう岸から』は、幸か不幸か一足先に思想的「向こう岸」へとたどりついてしまった、アレクサンドル・ゲルツェンの思索集。時代を超越する普遍性をもった名著だと思う。

 ゲルツェンのきわだった特徴のひとつは、自らの信じる思想すら永久不変の真理とはしないところだろう。その思想もいつかは極端なものに変質し、打ち負かされることになるとさえ言うのだ。そう考えるのはおそらく、神聖不可侵なドグマと化した思想が、人間に対して驚くほど暴力的になりうることを深く理解しているからでもある。じっさいにその恐怖を味わったゲルツェンの「このような衝撃を体験した以上、生身の人間が今まで通りでいることはできない」(p.78)からはじまる決意表明は印象的だ。大衆を一種の自然と見なし、彼らこそが歴史をつくり循環させる存在だと捉えているのもおもしろい。

 全8章のうち「嵐の前(船上での会話)」「VIXERUNT!(彼らは生き残った!)」「CONSOLATIO(なぐさめ)」の3章は対話形式で綴られるが、解説によれば自己との対話のようだ。それはゲルツェンにとっての理想と現実、期待と失望、感情と理性の対話に思える。世界を裁判官の目で見ることと医師の目で見ることのあいだで揺れながら、ゲルツェンは自分自身を追いつめ、説得し、思索を深めてゆく。そしてある諦念にいたるのだが、だからといってなげやりになるわけではない。むしろそれは、「独立した自立的な生き方」(p.238)、「新しい生の始まり」(p.239)なのだ。

 才能あふれる外部者であるからこそ、内部にいては見えにくいものをはっきりと見ることができるものの、外部者であるがゆえに内部への影響力は限られている、というのがゲルツェンのような立場の不幸なのだろう。とはいえその不幸は、「狂気の至福」(p.78)よりもずっと価値がある。

本物を知る

 人生は短い。そのすべてを費やして知ろうとしても、知りうることなどたかが知れている。しかしそれでも知ろうとするのは、知ることに価値があるからだろう。
 とはいえ、世の中には知らないほうがいいこともある。できれば知らずにすませたいと、ほぼ確実に思うようなことが。

 小学生のころの苦い記憶がよみがえってくる。ある日、なんとはなしに空を見上げると、口の中に何かが落ちてきた。苦い味がして反射的に吐きだす。……ハトのフンだ。運が悪いにもほどがある。まさに苦汁をなめたというわけだ。それ以来、鳥を見かけるたびに身構えるようになってしまった。もしどこかで鳥の一挙一動に怯える人間を目にしたら、優しく見守ってほしい。その人はきっと、悲しい経験をしてきたのだ。

 ところで、「○○を嫌うのは本物の○○を知らないから」と言ってくる人がいる。ただのマウンティングか、あるいは本気でそう信じているのだろうか。もし信じているのなら、ぜひ知ってほしい、本物のハトのフンを。そうすれば知ることになるだろう、前述の理論の愚かしさを。ひょっとすると、人によっては、ハトのフンのすばらしさを知るのかもしれないが……。

プリーモ・レーヴィ『休戦』『周期律』『リリス』

書名: 『休戦』(岩波書店)、『周期律』(工作舎)、『リリス』(晃洋書房
著者: プリーモ・レーヴィ
訳者: 竹山博英

 プリーモ・レーヴィの著書、なかでも『休戦』や『周期律』、そして『リリス』所収の「ロレンツォの帰還」「我らが印」などで印象深いのは、無駄を排した飾り気のない文章による人物描写だ。レーヴィ自身は「今では、ある人物を言葉で覆い尽くし、本の中で生き返らせるのは、見こみのない企てであることは分かっている」*1と言うのだが、特徴を巧みに捉えて生き生きと描きだすことに成功している。なお、ここで言う特徴とは、長所にも短所にもなりうるような表裏一体のものだ。それはさまざまな幸不幸の結果であり一因でもある。

 人生は、状況次第でいとも簡単に長短が逆転し明暗が分かれてしまう。「ある薄い膜や、一陣の風や、さいころの一ふりが、二人を二本の道に分け、それは一本にはならなかった」*2ということと、「言わなかった言葉に、利用しなかった機会に、思いを馳せながら」*3、偶然に左右されて生きていくしかない。それは良くもあり悪くもある。レーヴィの作品には、そんな喜びと悲しみが詰まっている。

*1:『周期律』p.79

*2:『周期律』p.195

*3:『休戦』p.317

リチャード・マグワイア『HERE』

書名: 『HERE』(国書刊行会
著者: リチャード・マグワイア
訳者: 大久保譲

 同じ地点から見た景色や出来事を、時を越えて切り貼りする作品。人々の暮らしを主軸にしながら、太古の昔から遠い未来に至るまでの断片を思うままにつなぎあわせていく。

 キャラクターやセリフの魅力に頼らずとも、ここまでのことができるのかと唸らされる。調査にもとづいている部分が意外とあるようなのもおもしろい。

死に近づいて生を感じる

 飛蚊症になった。眼科医によると、後部硝子体剥離なる現象が近視の影響で通常よりも早く起こり、その際に軽く出血しただけで、急変しなければまず心配ないそうだ。しかしそれでも、いつかは目が見えなくなる、ということを意識せざるをえなかった。それどころか心臓だって止まるのだ。いつ終わりがきてもおかしくない。自分の日常生活をふりかえって、「こんなことをしていていいのだろうか?」と思ったりもした。とはいえ、こんな文章を書いている。

ごみのはいった眼や、腫れて膿んだ指、病む歯だけが自分の存在を感じ、自分の個性を自覚するのだ。健康な眼や指や歯はまるでそれらが存在していないように思えるものだ。

ザミャーチン『われら』p.194、訳:川端香男里

われわれが「元気です」と言うときは、自分の肉体というものを少しも感じていないときだという、あのおなじみの言い回しがまたとない真実を告げているだろう。

ジャン・アメリー『罪と罰の彼岸』新版p.75、訳:池内紀

 私は自分の肉体を感じている。意識させられている。もともと持病があるので、意識させられることがさらに増えた、と言ったほうが正確か。身体の執拗な「自己主張」には、つくづくうんざりさせられる。もし痛みを感じなくなったら、それはそれで困るのだが。

 「健康的な生活」をしたいとは思うものの、なかなかそうもいかない。「健康的な生活」をおくるには、そこそこ健康であることがまず必要だったりするからだ。長患いを経験しないと、この感覚はわかりにくいかもしれない。健康は空気のように貴重で、失うまでその価値を実感しづらいものだ。
 ときどき、持病の症状がもっとも深刻だったころのことを思いだす。生きるに値しない毎日だった。もう一度あの苦しみを味わうくらいなら、確実に死を選ぶと断言できるほどに。
 眠れるということが、どれだけすばらしいか。あまりのすばらしさに最近ではついつい寝すぎてしまい、反省することもしばしばだ。しかし目覚まし時計をセットしても、寝起きの自分があの手この手で裏切ってくる。
 それにしても、あのときはどうやって耐えたのだろう?

 健康問題にふりまわされて、価値観もかなり変わってしまった。ほとんど老人のように生きている。もはや余生だ。そんなことを考えながら、アトゥール・ガワンデの『死すべき定め』を読んでいると、「社会情動的選択理論」*1なるものが出てきた。簡単に言えば、日々の生活における目標や行動などの志向は、年齢そのものではなく、自身に残された時間をどう認識するか次第で変わるということらしい。老人はもちろん、残りの人生は短いと考えている。一方でたいていの若者は、まだまだ人生は長いと思っているだろう。しかしたとえば、病気だったり不安があったりする場合など、なんらかの事情で先行きに不透明さを感じているときには、若者でも「老人のような価値観」になるそうだ(医学の進歩で寿命が20年も延びたと想像してもらったケースでは、老人が「若者のような価値観」になったとのこと)。
 ここでいう「老人のような価値観」とは、「現在ここにあるもの、日々の喜びと親しい人たちを大切にする」*2といったものだ。これは好きな言葉である “you have to die a few times before you can really live.”*3 に通じるところがある。病気になったり怪我をしたりするのは、一時的にであれ死に近づくことだ。それは普通と見なしがちなことのかけがえのなさを、実感するきっかけにもなりうる。

 医師でもあるガワンデが『死すべき定め』で扱っているのは、死にゆく人に対して医療*4には何ができるか、ということだ。なかでも終末期医療の話が印象的だった。

がん対処研究に参加した終末期がん患者のうち三分の二が、自身の最期の目標についての話を主治医としたことがなかった。調査が行われたのは平均で死の四カ月前だったにもかかわらず。しかし、残りの三分の一、死について医師と話をした患者は心肺蘇生をされたり、人工呼吸器をつけられたり、ICUに入れられたりすることが前者よりはるかに少なかった。この患者のうち大半はホスピスに入った。あまり苦しまず、体力もより保たれ、そして他者との交流をよりよい形で、より長い間、保つことができた。さらに加えて、患者の死から六カ月後で、遺族が長期間のうつ状態におちいっている割合が明らかに減っていた。言い換えると、最期について自分の嗜好を主治医と十分な話し合いをした患者は、そうしなかった患者よりも平穏に死を迎え、状況をコントロールでき、遺族にも苦痛を起こさない可能性がはるかに高いのだ。

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』p.174、訳:原井宏明

病院での通常の治療を諦めた患者は、高用量の医療用麻薬を与えられて痛みと闘っているだけであり、他の多くの人々も私もホスピスでのケアは死を早める、と思いこんでいた。しかし数多くの研究がまったく反対の結果を示している。

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』p.175、訳:原井宏明

この教訓はまるで禅問答のようである――人は長生きを諦めたときだけ、長生きを許される。

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』p.176、訳:原井宏明

 一縷の望みに賭けて苦しい治療に耐えながらより長く生きるか、苦痛の緩和を優先してより早く死ぬか、このどちらかを選択するのだと漠然と思っていた。しかしどうやらそれは思いこみだったようだ。

 死に際して多くの人が望んでいるのは、最期の日々を可能なかぎり平穏で価値あるものにすることだろう。会いたい人に会い、伝えたいことを伝え、やりたいことをやり、周囲の重荷にならず、苦しむことなく安らかに死に、最期の姿を悲痛なものにしない。
 残された短い時間をできる範囲で本人の希望どおりにすること、それは死にゆく人のためであり、遺される人のためでもある。どのような生に耐えられて、どのような生に耐えられないか、優先順位や許容範囲は人によってずいぶん違う。望みを叶えるには、まずその望みを知らなければならない。しかし大切な人への思いやりから、望まぬ治療を受けてしまったりもする。
 本当の希望をどうやって知ればいいのだろう? じつは相手の考えを知る秘訣がある。それをここで伝授しようと思う。ニコラス・エプリーが『人の心は読めるか?』で、想像力の価値とその限界や弊害を説きながら導きだした、あの方法と同じものだ。その秘訣とは、相手に訊くこと、話しあうことだ。当然すぎるし冗談みたいな話だが、じっさいこれほど効果的な手段はほかにない。

 ガワンデも『死すべき定め』で、話しあいの重要性を語っている。話しあうことは基本中の基本でありながら、けっして易しいことではない。話題が死ともなればなおさらだ。
 迫りくる現実的な死について語ることの心苦しさは、書中で何度となく示される。限られた選択肢のなかで何を望み何を望まないのか、質問するのもされるのも怖い。口にするタイミングや言いかたなど、配慮すべきこともたくさんある。すべての当事者にとって、まさに「厳しい会話」*5であり、避けられるなら避けたいことだと思う。しかしいつかは誰もが死ぬのだ。

 ガワンデはこの「厳しい会話」を、医師としてだけでなく、父親を見送る息子としても経験する。

限界を延ばしつづけることから、限界の中で最善を尽くすことに方向転換することはたやすいことではない。しかし、延ばすことによる損失が、メリットを上まわってしまう時点があるのは明らかだ。この時点をいつにするのか、それを決める葛藤を父が乗り越える手助けをしたのは、私の人生を通じて最大の苦痛であったと同時に最高の経験だった。

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』p.264、訳:原井宏明

 患者の具体的な希望は、一様でも不変でもない。価値観の違いだけでなく、容体の変化や現状の理解度でも変わってくる。話しあうことは、患者本人が状況をどう捉えたうえで何を恐れ何を求めているかを、ごく身近な人や医療者が知るのに役立つ。医療者が病状や治療ごとのメリット・デメリットをあきらかにし、患者が現状をより深く理解するのにも役立つ。「厳しい会話」をくりかえすうちに患者は、医療者と信頼関係を築いたり大切な人と絆を深めたりしながら、現実に取りうる選択肢を認識できるようになる。

 しかし選択すること自体が、そもそもあまりに難しい。

正しい選択は何だろうか。なぜ選ぶことにそこまで悩むのだろうか。私はふと、選択はリスク計算よりもはるかに複雑なことに気づいた。吐き気の軽減と再び食べられるチャンスの足し算から、痛みと感染症、バッグに排泄する生活を引き算するのをどうやってやればいいのだろうか。

アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』p.236、訳:原井宏明

 選択しないこともまた選択になってしまう。決断するのはこれ以上ないほど困難で、いずれにしても賭けでしかない。とはいえ少しでも穏やかな最期をむかえたいなら、熟慮のすえに主体的に選択することは、おそらく避けて通れないのだろう。苦しまないためだけでなく、苦しめないためにも。

 ガワンデが書いているのは、ある意味で生を諦めることだ。しかしそれは同時に、最期までよりよい生を諦めないことでもある。

*1:「社会情動的選択性理論」とも

*2:アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』p.90、訳:原井宏明

*3:チャールズ・ブコウスキー「breakfast」、『The People Look Like Flowers At Last: New Poems』p.58

*4:基本的に標準医療(標準治療)のこと。標準医療と先端医療(先進医療)の違いに関しては、国立がん研究センターの「がん情報サービス」にある「がんの検査と治療」がわかりやすい。代替医療に関しては、同じく「がん情報サービス」の「補完代替療法(ほかんだいたいりょうほう)を考える」、あるいは、NATROM『「ニセ医学」に騙されないために』などが参考になる。

*5:アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』第7章タイトル