文章練習

あきたらやめる

ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』

書名: 『あなたを選んでくれるもの』(新潮社)
著者: ミランダ・ジュライ
訳者: 岸本佐知子

 人に歴史あり。人生は語ることに満ちている。

わたしが記者でも何者でもないのを知っていながら、まるでこのインタビューがとても大きな意味をもつかのように、自分について語りはじめるのだ。でも、とわたしは気づいた。誰でも自分の物語は、その人にとってはとても大きな意味をもっているのだ。

『あなたを選んでくれるもの』p.36

 あらすじは、私物売買の案内広告などを掲載する無料情報誌『ペニーセイバー』を見たミランダ・ジュライが、広告を載せた売り手に電話をかけてインタビューを申しこみ、相手の許可が出れば自宅を訪問して話を聞いていく、というもの。
 著者がインタビューするのは、概して社会の主流ではない人たちだ。ネットに均されずに環境や習慣に強化された、強烈な個性の持ち主でもある(とはいえ自覚がないだけで、われわれ一人ひとりにもきっとそういう側面があるのだろう)。そんな生(なま)の生(せい)の生々しさに、引きつつも惹きつけられ、惹きつけられつつも引きながら、話は進んでいく。

 作中では「エア家族」なるものが登場する。

ティーンエイジャーのダイナは、雑誌の黒人女性の写真をスクラップブックに貼りつけていた。それはみんな彼女の空想上のお姉さんなのだった。わたしが会う人会う人、なぜだかみんな紙の上のエア家族を持っているようだった。

『あなたを選んでくれるもの』p.174

 そこでふと、ある言葉を思いだしたりもした。

人には誰か相手が必要だ。自分のまわりに誰もいないのなら、誰かをでっちあげて、あたかも実在する人物のようにしてしまえばいい。それはまやかしでもなければ、ごまかしでもない。むしろその反対のほうが、まやかしでごまかしだ。彼のような男が身近にいることもなく、人生を生きていくことのほうが。

チャールズ・ブコウスキー『くそったれ! 少年時代』p.191、訳:中川五郎

 読みすすめながら貧しさや孤独に同情したりするけれど、そうは言っても遠方に住む赤の他人であり、じっさいに助けようとするわけでもなければ助けられるわけでもない。この同情も結局は一時の感傷にすぎず、そう考えると何やら悪趣味な気もしてくる。
 著者は言う。

何かの埋め合わせのように、わたしはふだんより多めの金額を彼に払ってしまった。なぜならドミンゴは今まで会った誰よりも貧乏だったから。もっと不幸だったりもっと悲惨だったりする人は他にもいたけれど、いっしょにいて、彼ほどいやらしい優越感をかき立てる人はいなかった。わたしたちはわたしのプリウスに乗って帰った。もし自分と似たような人たちとだけ交流すれば、このいやらしさも消えて、また元どおりの気分になれるのだろう。でもそれも何かちがう気がした。結局わたしは、いやらしくたって仕方がないしそれでいいんだ、と思うことに決めた。だってわたしは本当にちょっといやらしいんだから。ただしそう感じるだけではぜんぜん足りないという気もした。他に気づくべきことは山のようにある。

『あなたを選んでくれるもの』p.161

 相手との断絶や非対称な関係、自分のいやらしさを認めつつ、それでも「自分と似たような人たちとだけ交流す」ることに安住するのをよしとはしない。

 インタビューをするたびに、こうしたさまざまなことが次第しだいに浮き彫りになっていく。表出するのはむしろ著者自身のことだ。他者と向きあうことで自分と向きあうという構図である以上、必然的にそうなるのだろう。それを読んで考えをめぐらすうちに、読者も自分自身と向きあうことになる。

 私はといえば、「わかる」と思いながら読んでいたものの、一方で「簡単にわかった気になってはいけない」とも感じていた。人類はわかりやすいとしても、個人はあまりにはかりがたいからだ。
 そもそもコミュニケーションは、どこまでいっても推測でしかない。それぞれに想像力を駆使して、「わかった」「わからない」「わかってくれた」「わかってくれない」などと勝手に合点しつつ、喜んだり嘆いたりしているにすぎないのだ。その最たる例がこの感想だろう。
 うんざりするほど月並な表現ながら、個人はもともと理解不能なものだという前提で、それでもできるだけ理解しようとするのが大切なのだと思う。わかった気にならないことと、わかろうとすることが。人間に与えられた時間や能力は有限であり、知りうることなどたかが知れていると知ったうえで、それでも知ろうとするように。
 それは人生に打ちのめされて諦観へとたどりつき、そこからなんとか立てなおして再出発することにも似ている。

 諦念を起点とする、一種ネガティブなポジティブさ。そうしたポジティブさは、私が長患いのなかで自然と身につけたものであり、ジョーの話を読んでいるときに改めて意識したことでもある。
 世界を救うことなどできはしないとしても、身近な人と自分自身を少しだけ救うことならできる、ということをジョーは体現していた。そうすることで世界は、ごくわずかであれましなものになり、生きるに値するものにもなるのだろう。

アレクサンドル・ゲルツェン『向こう岸から』

書名: 『向こう岸から』(平凡社
著者: アレクサンドル・ゲルツェン
訳者: 長縄光男

 『向こう岸から』は、幸か不幸か一足先に思想的「向こう岸」へとたどりついてしまった、アレクサンドル・ゲルツェンの思索集。時代を超越する普遍性をもった名著だと思う。

 ゲルツェンのきわだった特徴のひとつは、自らの信じる思想すら永久不変の真理とはしないところだろう。その思想もいつかは極端なものに変質し、打ち負かされることになるとさえ言うのだ。そう考えるのはおそらく、神聖不可侵なドグマと化した思想が、人間に対して驚くほど暴力的になりうることを深く理解しているからでもある。じっさいにその恐怖を味わったゲルツェンの「このような衝撃を体験した以上、生身の人間が今まで通りでいることはできない」(p.78)からはじまる決意表明は印象的だ。大衆を一種の自然と見なし、彼らこそが歴史をつくり循環させる存在だと捉えているのもおもしろい。

 全8章のうち「嵐の前(船上での会話)」「VIXERUNT!(彼らは生き残った!)」「CONSOLATIO(なぐさめ)」の3章は対話形式で綴られるが、解説によれば自己との対話のようだ。それはゲルツェンにとっての理想と現実、期待と失望、感情と理性の対話に思える。世界を裁判官の目で見ることと医師の目で見ることのあいだで揺れながら、ゲルツェンは自分自身を追いつめ、説得し、思索を深めてゆく。そしてある諦念にいたるのだが、だからといってなげやりになるわけではない。むしろそれは、「独立した自立的な生き方」(p.238)、「新しい生の始まり」(p.239)なのだ。

 才能あふれる外部者であるからこそ、内部にいては見えにくいものをはっきりと見ることができるものの、外部者であるがゆえに内部への影響力は限られている、というのがゲルツェンのような立場の不幸なのだろう。とはいえその不幸は、「狂気の至福」(p.78)よりもずっと価値がある。

本物を知る

 人生は短い。そのすべてを費やして知ろうとしても、知りうることなどたかが知れている。しかしそれでも知ろうとするのは、知ることに価値があるからだろう。
 とはいえ、世の中には知らないほうがいいこともある。できれば知らずにすませたいと、ほぼ確実に思うようなことが。

 小学生のころの苦い記憶がよみがえってくる。ある日、なんとはなしに空を見上げると、口の中に何かが落ちてきた。苦い味がして反射的に吐きだす。……ハトのフンだ。運が悪いにもほどがある。まさに苦汁をなめたというわけだ。それ以来、鳥を見かけるたびに身構えるようになってしまった。もしどこかで鳥の一挙一動に怯える人間を目にしたら、優しく見守ってほしい。その人はきっと、悲しい経験をしてきたのだ。

 ところで、「○○を嫌うのは本物の○○を知らないから」と言ってくる人がいる。ただのマウンティングか、あるいは本気でそう信じているのだろうか。もし信じているのなら、ぜひ知ってほしい、本物のハトのフンを。そうすれば知ることになるだろう、前述の理論の愚かしさを。ひょっとすると、人によっては、ハトのフンのすばらしさを知るのかもしれないが……。

プリーモ・レーヴィ『休戦』『周期律』『リリス』

書名: 『休戦』(岩波書店)、『周期律』(工作舎)、『リリス』(晃洋書房
著者: プリーモ・レーヴィ
訳者: 竹山博英

 プリーモ・レーヴィの著書、なかでも『休戦』や『周期律』、そして『リリス』所収の「ロレンツォの帰還」「我らが印」などで印象深いのは、無駄を排した飾り気のない文章による人物描写だ。レーヴィ自身は「今では、ある人物を言葉で覆い尽くし、本の中で生き返らせるのは、見こみのない企てであることは分かっている」*1と言うのだが、特徴を巧みに捉えて生き生きと描きだすことに成功している。なお、ここで言う特徴とは、長所にも短所にもなりうるような表裏一体のものだ。それはさまざまな幸不幸の結果であり一因でもある。

 人生は、状況次第でいとも簡単に長短が逆転し明暗が分かれてしまう。「ある薄い膜や、一陣の風や、さいころの一ふりが、二人を二本の道に分け、それは一本にはならなかった」*2ということと、「言わなかった言葉に、利用しなかった機会に、思いを馳せながら」*3、偶然に左右されて生きていくしかない。それは良くもあり悪くもある。レーヴィの作品には、そんな喜びと悲しみが詰まっている。

*1:『周期律』p.79

*2:『周期律』p.195

*3:『休戦』p.317

リチャード・マグワイア『HERE』

書名: 『HERE』(国書刊行会
著者: リチャード・マグワイア
訳者: 大久保譲

 同じ地点から見た景色や出来事を、時を越えて切り貼りする作品。人々の暮らしを主軸にしながら、太古の昔から遠い未来に至るまでの断片を思うままにつなぎあわせていく。

 キャラクターやセリフの魅力に頼らずとも、ここまでのことができるのかと唸らされる。調査にもとづいている部分が意外とあるようなのもおもしろい。