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プリーモ・レーヴィの『休戦』で気になったこと

 プリーモ・レーヴィの名著『休戦』には、脇功による邦訳(以下「脇訳」)と、竹山博英による邦訳(以下「竹山訳」)がある。脇訳は1969年に早川書房から出版され、竹山訳は1998年に朝日新聞社から出版されたのち、2010年に岩波書店から文庫化された。

 ここでは脇訳と竹山訳を比較しながら、気になった部分について語ることにする。なお、竹山訳は岩波文庫のものを用いる。

 以下に引用するのは、強制収容所の入口で別れさせられた人たちの安否を、オルガから聞いたあとの場面だ*1。ほぼ全員が死んでおり、レーヴィにとって特別な存在だったとされる*2ヴァンダ・マエストロも生き残れなかった。

ヴァンダは十月に、意識のはっきりしたままガス室に入っていった。オルガは彼女に睡眠剤を二錠手に入れてやったのだが、それだけの量では足りなかったのだった。

『休戦』p.34、訳:脇功

ヴァンダは十月に、一点の曇りも心に抱かずに、ガス室に行った。オルガ自身が睡眠薬を二錠、ヴァンダのために調達したのだが、それでは足りなかった。

『休戦』p.50、訳:竹山博英

 脇訳では「意識のはっきりしたまま」となっている箇所が、竹山訳では「一点の曇りも心に抱かずに」となっている。具体的でわかりやすいのは脇訳のほうだ。

 原文を見てみよう。

Vanda era andata in gas, in piena coscienza, nel mese di ottobre: lei stessa, Olga, le aveva procurato due pastiglie di sonnifero, ma non erano bastate.

『La tregua』

 こうした話のときは、原語に関する解説とともに、どう訳すべきかなどが語られるものだ。しかしそうはならない。なぜならイタリア語を「チャオ」ぐらいしか知らないからだ。

 そういうわけで、しかたなく英訳を参照する。

Vanda had died by gas, fully conscious, in the month of October; Olga herself had procured two sleeping tablets for her, but they had not proved sufficient.

『The Truce』、訳:Stuart Woolf

Vanda had been gassed, fully conscious, in the month of October; she herself, Olga, had obtained two sleeping pills for her, but they were not enough.

『The Truce』、訳:Ann Goldstein

 どちらも「ヴァンダは十月に、完全に意識があるままガスで死んだ(殺された)。彼女のためにオルガ自身が睡眠薬を二錠調達したものの、それでは足りなかったのだ」という意味であり、脇訳と同様の解釈をしている。ざっと検索してみると、英語で書かれた伝記『Primo Levi: A Life』や、イタリア語で書かれた伝記『Partigia. Una storia della Resistenza』の英訳『Primo Levi's Resistance: Rebels and Collaborators in Occupied Italy』でも、脇訳とほぼ同じ解釈をしているようだ。
 一文目と二文目をつなぐコロン(英訳ではセミコロン)の存在も、脇訳の文脈的な妥当性を示していると思う。換言すれば、意識のはっきりした状態だった理由として睡眠薬が足りなかったことを挙げている、と読むのが自然ではないかということだ。

 脇訳の解釈が一般的なものだとしたら、竹山訳はなぜ「一点の曇りも心に抱かずに」となったのだろう?

 イタリア語がわからないなりに Wiktionary などで調べると、「coscienza」には「意識」だけでなく「良心」の意味もあることがわかる。「一点の曇りも心に抱かずに」が、もし「曇りなき心で」を意味するのなら、それはまさに良心のことだろう。
 竹山訳には「coscienza」の訳語を「意識」とした箇所*3もあれば「良心」とした箇所*4もあるようだ。つまり文脈によっては「意識」と訳すのがふさわしいと理解したうえで、それでも「一点の曇りも心に抱かずに」と訳したことになる。

 「良心」は強制収容所とも関連するキーワードだ。強制収容所に関する証言や回想録では、過酷な環境で「良心」を失っていく被収容者たちのことがしばしば語られる(それは簡単に断罪できるものではないということも)。
 たとえばレーヴィは、『アウシュヴィッツは終わらない』『溺れるものと救われるもの』で次のように書いている*5

生きのびるために考え出された方法は無数にある。個々人の性格と同じくらいだ。だがどれも、自分以外の全員に対する消耗戦を伴い、多くは、少なからぬ道徳放棄とごまかしを必要とする。自分の信念を何一つ捨てずに生きのびることは、よほどの強運に恵まれない限りは、聖人や殉職者になれるわずかの優れた人物にしか許されていなかった。

アウシュヴィッツは終わらない』p.110、訳:竹山博英

ラーゲルの「救われたものたち」は、最良のものでも、善に運命づけられたものでも、メッセージの運搬人でもない。私が見て体験したことが、その正反対のことを示していた。むしろ最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、「灰色の領域」の協力者、スパイが生き延びていた。決まった規則はなかったが(人間の物事には決まった規則はなかったし、今でもない)、それでもそれは規則だった。確かに私は自分が無実だと感じるが、救われたものの中に組み入れられている。そのために、自分や他人の目に向き合う時、いつも正当化の理由を探し求めるのである。最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった。

『溺れるものと救われるもの』p.86、訳:竹山博英

 こうしたことをふまえて、良心を失わずに死んでいった最良の人々にヴァンダを含めている、というのがレーヴィの意図だと判断したのかもしれない。

 いずれにせよ、「良心」より「意識」のほうが文脈上ふさわしいと感じるものの、イタリア語がわからないので断言はできない。そもそもイタリア語どころか、日本語である「一点の曇りも心に抱かずに」の解釈さえ、確信をもって語れないのだが。

*1:竹山博英『プリーモ・レーヴィ』(言叢社)によると、原稿の段階ではこの場面に続きがあったものの、出版の際にレーヴィが削除したそうだ。レーヴィが削除したその文章も評伝内で訳出されている。

*2:竹山博英『プリーモ・レーヴィ』(言叢社)参照

*3:「それは今までは、他の差し迫った苦痛によって覆い隠され、意識の片隅に追いやられていた」(p.21)

*4:「流血の話で、すべての人の良心を根底から揺さぶるはずだった」(p.86)

*5:1984年のインタビューではこう語っている。「ラーゲルを出た我々の誰もがある種の居心地の悪さを覚えており、そしてこの居心地の悪さに自分たちで〈良心の呵責〉というレッテルを張り付けたのです。もちろん先ほど話に出た犠牲者と虐待者の同一視の問題と一致する訳ではありません。虐待者が覚えるべき恥の感情を我々が感じている訳ではありませんが、ある程度は多分誰もが、いや多くの者が自分たちと同じかそれ以上の価値をもった人びとが数多く死んで行ったと言うことを考える度に、ある種のバツの悪さを覚えたのです。必ずしも優れた人びとが生き残った訳ではありません。最低の奴らが生き残った例もあります。ともかく誰かの代わりに自分が生きている、という感覚なのです」(編:マルコ・ベルポリーティ『プリーモ・レーヴィは語る』p.229、訳:多木陽介)