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ジャット/スナイダー『20世紀を考える』

書名: 『20世紀を考える』(みすず書房
著者: トニー・ジャット、ティモシー・スナイダー
訳者: 河野真太郎

 『20世紀を考える』は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患した歴史学者トニー・ジャットが、おなじく歴史学者のティモシー・スナイダーを聞き手として、縦横無尽に語る刺激的な対談録。なお、この対談が収録されたのは2009年であり、文字起こしや編集作業を経て原書は2012年に出版されたが、ジャット自身は2010年に亡くなっている。

 序文でスナイダーが言うように、本書は歴史書であり伝記であり思索の書でもある。また「対話の力を主張するものであるが、おそらく読書の力をより強く主張するものでもある」(p.7)。キーワードは、「歴史に学ぶ」「知識人の責務」だろう。

 「歴史に学ぶ」に関しては、それがいかに重要でどれほど困難か、学ばなければどうなるかがよく伝わってくる。
 人類は予知能力など持ち合わせておらず、未来を予測するためには過去から学ぶしかない。歴史という先人の経験から学ぶことで、うまくいけば同じ危機をくりかえさずにすむようになる。もし歴史から学ばないとすれば、自分たちの経験から学ぶしかない。そうすると、危機は避けがたいものになってしまう。それどころか、何かの価値を痛切に実感させるにはむしろ危機が必要、なんてことにもなりかねない。破局的な危機さえもだ。そうならないためには、やはり歴史から学ぶべきなのだ。
 しかし歴史に学ぶなら、私たちが歴史から多くを正確に学ぶとはとても言えないだろう。えてしてほとんど何も学ばないか、あるいは重要な文脈をとりはらった、ときに有害ですらある「教訓」を引きだしたりするのだから。
 さまざまな予測を的中させるジャットの洞察力に唸らされながら、どうしても思わざるをえなかったのは、人類が歴史に学ばず似たような失敗をくりかえしつづけるがゆえに予測できるということと、仮に予測できたとしても大きな流れを変えられるわけではないということだ。この認識がおおむね正しいとしたら、結局のところ、危機はときどき必要か、いずれにしてもほぼ不可避なのではないか。

こんにち、わたしたちは貧困、不公正、病気に対する美学的な嫌悪感をいまだに経験していることはたしかですが、わたしたちの感性は、かつて第三世界と呼び習わしていたものに限定されることが多いのです。わたしたちは、インド、サンパウロのスラム、またはアフリカのような場所での貧困と経済的な不公正、不公平な分配のまったき不正を意識しています。しかし、シカゴ、マイアミ、デトロイトロサンジェルス、またはさらにはニューオーリンズのスラムにおける、それと比較可能な資源と生活機会の不公平な分配には、はるかに鈍感なのです。

『20世紀を考える』p.519

国家がなにかを供給する必要があるということを人びとに納得させるには、危機が必要なのだと思います。その供給がないがゆえにもたらされる危機ですね。総体としての人びとは、自分たちが時々しか必要としないサーヴィスがつねに利用可能な状態にされるべきだということは、けっして信じないでしょう。それがそういった人びと自身にとって利用できず、不都合を引き起こすときにのみ、普遍的な供給の必要性を訴えることができるのです。

『20世紀を考える』p.555

極端に機能不全の収入体系や資源分配の形式をもっている社会の経済は、社会的な不安定によって最終的には脅かされると、何度も何度も示され、証明されてきました。ですから、それ自身の機能不全のロジックをあまりつきつめないことは、経済にとってよく、労働者にとってよいというだけではなく、資本主義という名の抽象にとってもよいことなのです。

『20世紀を考える』p.552

 わたしたちが民主主義と結びつけるような美徳を最大化させた国民の歴史を見てみると、最初に生じたのは立憲制、法の支配、そして三権分立であることに気づきます。民主主義というのはつねに最後に生じる要素です。(中略)ですから、民主主義が出発点だと言ってはいけないのです。
 民主主義と、秩序だったリベラルな社会との関係は、過剰な自由市場と、うまく統制された資本主義との関係とおなじです。

『20世紀を考える』p.448

民主主義体制は非常に急速に腐食します。それは言語的に、もしくは言ってみればレトリック的に腐食します。それが言語をめぐるオーウェルの論点ですね。民主主義体制が腐食するのは、ほとんどの人びとがそれについてあまり気にとめないからです。

『20世紀を考える』p.449

政治的リアリズムと道徳的シニシズムを区別する細い分断線を横断するのは簡単なのです。そしてそれを越えてしまった代償としてやがてもたらされるのは、公共空間の腐敗なのです。

『20世紀を考える』p.467

つぎの世代でわたしたちが直面する選択肢は、資本主義か共産主義か、または歴史の終わりか歴史の回帰か、ではなく、集団的な目的にもとづく社会的な結束か、それとも不安の政治による社会の腐食か、というものになります。

『20世紀を考える』p.559

 ジャットの考える「知識人の責務」とは、重要な真実を明快に語ることだ。それも人びとが聞きたがらない類の真実を。過去の出来事を濫用したり抹殺したりしようとする世の中の動きを何度となく正す、シーシュポス的な仕事もそこに含まれる。そうした知識人の役割を現代において果たしたのは調査報道を担うジャーナリストである、との指摘は鋭く、ジャーナリストという仕事の重要性とその責任の重大性を思いださせてくれる。
 知識人たちは今後、長きにわたる取り組みの結実として確立したもの――たとえば自由や人権――をいかにして守るのか、より悪い世界をどのようにして避けるのかを問われる状況に直面するだろう、とジャットは言う。制度の成り立ちを理解して必要なら守ること、それは「知識人の責務」であり「歴史に学ぶ」の実践でもある。

 人類は際限なく相争う無秩序な状態を脱し、他人を信じて頼ることで社会をつくり発展してきた。社会の基礎は信頼であり、その信頼を個々の人間関係から共同体全体へと拡大するために、さまざまな制度を築いてきた。それにもかかわらず昨今は、信頼を掘り崩したり制度を骨抜きにしようとしたりする話が多方面から聞こえてくる。しかもそれを率先して行なっているのが、よりによって政治家や官僚であり、みずからの正統性と社会の安定を損ないながら、そのことに気づいていないか気にしていないのだ。そこで本来は知識人やジャーナリストの出番なのだが、正直なところ彼らが頼りになるとは言いがたい。能力があり勉強もしている人はしばしば影響力が足りず、影響力のある人はしばしば能力や勉強が足りない、という深刻な状況だからだ。

 はたして私たちは危機をくりかえさずにいられるだろうか?