文章練習

あきたらやめる

ナイツェル/ヴェルツァー『兵士というもの』

書名: 『兵士というもの』(みすず書房
著者: ゼンケ・ナイツェル、ハラルト・ヴェルツァー
訳者: 小野寺拓也

 膨大な捕虜盗聴記録の分析によって人間観の更新を迫る労作。

 戦争中の兵士が残虐行為を思いとどまったり押しとどめたりすることは、現実的にどれだけ可能だろう。命令・任務・帰属意識・復讐心・恐怖心・マチスモなどがほぼすべてアクセルであり、場合によっては教育・報道・時代精神さえアクセルであるときに、個人はブレーキとしてまともに機能しうるだろうか。
 そういった疑問への答えを盗聴された会話から導きだし、兵士というものを丹念に見ていくことで、「人間性」「人間味」「人間的」「人間らしさ」のような言葉における「人間」とは違う、あるべき姿でもありたい姿でもない人間というものが見えてくる。

パンチングマシーン日和

 ひさびさにパンチングマシーンをやりたくなった。もうずいぶんやっていない気がする。やりたくてしかたない。人生における次の目標は、パンチングマシーンをやることだ。ところで、「人生における次の目標」を「次の人生における目標」と書いたら、「来世」みたいになってしまうので気をつけたい。

 たやすく徒歩で行ける距離にはゲームセンターがなく、自転車の類もないので、電車で楽に行けそうなところを探す。どうやら近隣駅の周辺に、大きなゲームセンターがあるらしい。その店のサイトを確認すると、設置機種一覧にパンチングマシーンが記載されている。これはもう行くしかない。

 買ったばかりの新しい靴を履く。靴で気分も変わる。今回はまるで新しい靴を履いたときみたいな気分だ。ドアを開けて外気に触れた瞬間、身が引きしまってモードが切り替わる。服を通りぬける風が快く、もうしばらくこのままでいたいという気持ちになってくる。しかし靴の柔らかな履き心地に高揚した足が「早く行こうよ」とせかすので、すぐに出発することにした。弾むような足どりでゲームセンターに向かう。うきうきしてスキップしているわけではなく、靴の反発力と追い風の影響だ。

 そうこうするうちに目的地に到着。あとは思いきり殴りとばすだけだ。店内に入ると轟音で気分が悪くなってきたものの、この不快さはパンチングマシーンにぶつければいい。野暮を言わずに受け止めてくれるにちがいない。だが肝心のパンチングマシーンはどこにある? 見つけられないので店員に訊くと、もう置いていないのだとか。あの設置機種一覧は以前のものだったらしい。しかしそんなこともあろうかと、事前に付近一帯のゲームセンターを調べておいた。なんて準備がいいのだろう。
 まずはそこからもっとも近い店に足を運ぶ。ここにもパンチングマシーンはない。そしてまた別の店舗に向かう。ここにもない。さらに別のところへ。それでもパンチングマシーンはない。最後のゲームセンターにおそるおそる足を踏み入れる。しかしどこを探しても見あたらない。ああ、愛しのパンチングマシーンよ、100円で買える喜びよ、いったいどうしたというのか。内なるソニックブラストマンがむなしく叫ぶ、「私のパンチを受けてみろ」と……。

 がっかりして帰途につく。電車のなかで、くだらないことをあれこれ考える。
 叶いそうにない願いは、部分的に叶えてみたらどうだろう? 細分化したり置き換えたりして、なんとなく叶った感じにするのだ。たとえば、鳥にはなれないが空は飛べる、というように。まあ、空を飛びたいとは思っても、鳥になりたいとはまったく思わないのだが。それはそれとして、これをパンチングマシーンに当てはめることはできるだろうか? 自分の手でも殴るとか? とりあえず殴ってみる。ただただ痛いだけだった。
 窓から外を眺める。家々が流れていく。あの家でもきっと誰かが暮らしているのだろう。『人間の大地』や『飛ぶ教室』にも、こんな場面があったことを思いだす。いろんな屋根の下に、いろんな生活がある。パンチングマシーンを探しまわって見つけられない人生も……。

 地元の駅で降りて改札口のほうへ向かうと、裸に大きめのワイシャツしか着ていないように見える人がいて驚愕する。そんな格好で外出するなんてどうかしていると思ったものの、よくよく見たらベージュか何かのスキニーパンツだった。どうかしているのはこっちだ。そもそもまじまじと見ずに目を逸らすべきではないか、という気もしてくる。

 疲れ果てた。とはいえ疲労の果てに快眠があると考えれば、そう悪くはない。疲れの原因が価値あることなら、その日を無駄にしなかった充足感にもつながる。今回は無駄そのものだったが。

グスタフ・ヘルリンク゠グルジンスキの回想録

 ホルヘ・センプルンの『なんと美しい日曜日!』を読んで、グスタフ・ヘルリンク゠グルジンスキの回想録に興味をもった。ソビエト連邦での過酷な強制収容所体験を記した名著なのだとか。
 ざっと検索したところ、その回想録は日本でも刊行されていたことがわかった。日本語版には1954年出版の『死の収容所』(創美社)と1963年出版の『白い夜』(現代芸術社)があり、どうやらどちらも英語版*1である『A World Apart』からの重訳らしい。『死の収容所』『白い夜』ともに訳者が同じなので、『白い夜』は改題もしくは改訳と判断してよさそうだ。

 新しいほうが何かと無難だろうと考えて、とりあえず『白い夜』を手に入れた。ところが見るからにページ数が少なく、ページごとの文字数が多いわけでもない。もしやと思って『A World Apart』と対照したら、やはり『白い夜』は抄訳だったことが判明した。
 しかたなく『死の収容所』を入手したが、『白い夜』ほどではないものの、こちらもいくらか割愛されているようだ。しかしもう他に邦訳はない。全訳でないのを残念に思いながら、『死の収容所』を中心に読むことにする。

 読みすすめると、あきらかにおかしな文章が目につく。意味不明な箇所がいくつも出てくる。微妙な英語力でも気づけるような誤訳が多々あるのだ*2。『白い夜』を見ても、収録された部分に実質的な修正はほとんどない。文意がつかめなかったところや文脈的におかしいと感じたところはすべて誤訳だった、と言えるぐらい間違いだらけだ。誤訳の程度もひどい。発言者が入れ替わったり、内容が正反対になったり……。表記の揺れも多数あり、著者名すらそうなのだから驚かされる*3

 前述したように、全訳でなかったり誤訳が多かったりと、日本語版に対する不満はたくさんある。なかでも深刻なのは、英語版を参照しないと、理解できないどころか誤解してしまうことだ。
 他方で、「この訳文は何を表現しようとしていたのか」「文意を明快にするためにどんな修正が必要か」「どこをどう解釈して誤訳が発生したのか」「ふさわしい訳は何か」などをたびたび検討したことが、読み書きのいい訓練になったとも感じる。結果的にブログの目的に適う読書だった。

 もし邦訳が存在しなければ、この回想録を読もうとはせず、忘れがたい苦みを残すエピローグに心を動かされることもなかっただろう。そう考えると、さまざまな点で不満があるとはいえ、訳者の仕事は無価値だったわけではない。

*1:原文はポーランド語。

*2:一例を挙げると、 “The talks with Lavrenti Ivanovich soon made us close friends, and one day our conversation turned to the subject of our cellmates.” の前半部分を「ラヴレンティ・イヴァノヴィチとの話合いはまもなく私との友情を閉ざしてしまった」(『死の収容所』p.22)と訳したりしている。

*3:『死の収容所』『白い夜』ともに、カバーや表紙では「ギスターブ・ハーリング」となっているものの、著者紹介や奥付では「ギスターフ・ハーリング」となっている。序文では『死の収容所』が「ギュスターヴ・ハーリング」、『白い夜』が「ギュスターブ・ハーリング」で、とにかくまったく統一されていない。

プリーモ・レーヴィの『休戦』で気になったこと

 プリーモ・レーヴィの名著『休戦』には、脇功による邦訳(以下「脇訳」)と、竹山博英による邦訳(以下「竹山訳」)がある。脇訳は1969年に早川書房から出版され、竹山訳は1998年に朝日新聞社から出版されたのち、2010年に岩波書店から文庫化された。

 ここでは脇訳と竹山訳を比較しながら、気になった部分について語ることにする。なお、竹山訳は岩波文庫のものを用いる。

 以下に引用するのは、強制収容所の入口で別れさせられた人たちの安否を、オルガから聞いたあとの場面だ*1。ほぼ全員が死んでおり、レーヴィにとって特別な存在だったとされる*2ヴァンダ・マエストロも生き残れなかった。

ヴァンダは十月に、意識のはっきりしたままガス室に入っていった。オルガは彼女に睡眠剤を二錠手に入れてやったのだが、それだけの量では足りなかったのだった。

『休戦』p.34、訳:脇功

ヴァンダは十月に、一点の曇りも心に抱かずに、ガス室に行った。オルガ自身が睡眠薬を二錠、ヴァンダのために調達したのだが、それでは足りなかった。

『休戦』p.50、訳:竹山博英

 脇訳では「意識のはっきりしたまま」となっている箇所が、竹山訳では「一点の曇りも心に抱かずに」となっている。具体的でわかりやすいのは脇訳のほうだ。

 原文を見てみよう。

Vanda era andata in gas, in piena coscienza, nel mese di ottobre: lei stessa, Olga, le aveva procurato due pastiglie di sonnifero, ma non erano bastate.

『La tregua』

 こうした話のときは、原語に関する解説とともに、どう訳すべきかなどが語られるものだ。しかしそうはならない。なぜならイタリア語を「チャオ」ぐらいしか知らないからだ。

 そういうわけで、しかたなく英訳を参照する。

Vanda had died by gas, fully conscious, in the month of October; Olga herself had procured two sleeping tablets for her, but they had not proved sufficient.

『The Truce』、訳:Stuart Woolf

Vanda had been gassed, fully conscious, in the month of October; she herself, Olga, had obtained two sleeping pills for her, but they were not enough.

『The Truce』、訳:Ann Goldstein

 どちらも「ヴァンダは十月に、完全に意識があるままガスで死んだ(殺された)。彼女のためにオルガ自身が睡眠薬を二錠調達したものの、それでは足りなかったのだ」という意味であり、脇訳と同様の解釈をしている。ざっと検索してみると、英語で書かれた伝記『Primo Levi: A Life』や、イタリア語で書かれた伝記『Partigia. Una storia della Resistenza』の英訳『Primo Levi's Resistance: Rebels and Collaborators in Occupied Italy』でも、脇訳とほぼ同じ解釈をしているようだ。
 一文目と二文目をつなぐコロン(英訳ではセミコロン)の存在も、脇訳の文脈的な妥当性を示していると思う。換言すれば、意識のはっきりした状態だった理由として睡眠薬が足りなかったことを挙げている、と読むのが自然ではないかということだ。

 脇訳の解釈が一般的なものだとしたら、竹山訳はなぜ「一点の曇りも心に抱かずに」となったのだろう?

 イタリア語がわからないなりに Wiktionary などで調べると、「coscienza」には「意識」だけでなく「良心」の意味もあることがわかる。「一点の曇りも心に抱かずに」が、もし「曇りなき心で」を意味するのなら、それはまさに良心のことだろう。
 竹山訳には「coscienza」の訳語を「意識」とした箇所*3もあれば「良心」とした箇所*4もあるようだ。つまり文脈によっては「意識」と訳すのがふさわしいと理解したうえで、それでも「一点の曇りも心に抱かずに」と訳したことになる。

 「良心」は強制収容所とも関連するキーワードだ。強制収容所に関する証言や回想録では、過酷な環境で「良心」を失っていく被収容者たちのことがしばしば語られる(それは簡単に断罪できるものではないということも)。
 たとえばレーヴィは、『アウシュヴィッツは終わらない』『溺れるものと救われるもの』で次のように書いている*5

生きのびるために考え出された方法は無数にある。個々人の性格と同じくらいだ。だがどれも、自分以外の全員に対する消耗戦を伴い、多くは、少なからぬ道徳放棄とごまかしを必要とする。自分の信念を何一つ捨てずに生きのびることは、よほどの強運に恵まれない限りは、聖人や殉職者になれるわずかの優れた人物にしか許されていなかった。

アウシュヴィッツは終わらない』p.110、訳:竹山博英

ラーゲルの「救われたものたち」は、最良のものでも、善に運命づけられたものでも、メッセージの運搬人でもない。私が見て体験したことが、その正反対のことを示していた。むしろ最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、「灰色の領域」の協力者、スパイが生き延びていた。決まった規則はなかったが(人間の物事には決まった規則はなかったし、今でもない)、それでもそれは規則だった。確かに私は自分が無実だと感じるが、救われたものの中に組み入れられている。そのために、自分や他人の目に向き合う時、いつも正当化の理由を探し求めるのである。最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった。

『溺れるものと救われるもの』p.86、訳:竹山博英

 こうしたことをふまえて、良心を失わずに死んでいった最良の人々にヴァンダを含めている、というのがレーヴィの意図だと判断したのかもしれない。

 いずれにせよ、「良心」より「意識」のほうが文脈上ふさわしいと感じるものの、イタリア語がわからないので断言はできない。そもそもイタリア語どころか、日本語である「一点の曇りも心に抱かずに」の解釈さえ、確信をもって語れないのだが。

*1:竹山博英『プリーモ・レーヴィ』(言叢社)によると、原稿の段階ではこの場面に続きがあったものの、出版の際にレーヴィが削除したそうだ。レーヴィが削除したその文章も評伝内で訳出されている。

*2:竹山博英『プリーモ・レーヴィ』(言叢社)参照

*3:「それは今までは、他の差し迫った苦痛によって覆い隠され、意識の片隅に追いやられていた」(p.21)

*4:「流血の話で、すべての人の良心を根底から揺さぶるはずだった」(p.86)

*5:1984年のインタビューではこう語っている。「ラーゲルを出た我々の誰もがある種の居心地の悪さを覚えており、そしてこの居心地の悪さに自分たちで〈良心の呵責〉というレッテルを張り付けたのです。もちろん先ほど話に出た犠牲者と虐待者の同一視の問題と一致する訳ではありません。虐待者が覚えるべき恥の感情を我々が感じている訳ではありませんが、ある程度は多分誰もが、いや多くの者が自分たちと同じかそれ以上の価値をもった人びとが数多く死んで行ったと言うことを考える度に、ある種のバツの悪さを覚えたのです。必ずしも優れた人びとが生き残った訳ではありません。最低の奴らが生き残った例もあります。ともかく誰かの代わりに自分が生きている、という感覚なのです」(編:マルコ・ベルポリーティ『プリーモ・レーヴィは語る』p.229、訳:多木陽介)

ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』

書名: 『べつの言葉で』(新潮社)
著者: ジュンパ・ラヒリ
訳者: 中嶋浩郎

 ベンガル人の両親をもつアメリカ育ちの成功した作家が、アメリカからイタリアに移住して、イタリア語、つまり「べつの言葉で」作品を書く――興味深くはあるものの、なぜそんなことをするのだろう?

 それはどうやら、イタリア語への愛情に加えて、変化への希求が関係しているらしい。ジュンパ・ラヒリは変わりつづけることにこだわっており、人間としても作家としても自分を変えたい、との思いが原動力のひとつになったようだ。とかく変化を嫌ったという母親とは対照的だ。
 アメリカからイタリアに移住するのは、イタリア語を身につけるためであり、生きかたを変えるためでもある。考えようによっては、両親の移民としての人生をたどる形にもなっていて、そこがまたおもしろい。
 「べつの言葉」への傾倒は、著者のなかで長くつづいてきた、ベンガル語と英語の対立ともかかわっている。両親の言語で「母」たるベンガル語。生まれ育った土地の言語で「継母」たる英語。どちらからも離れて、新たな言語を自分の意志で学ぶのは、要するに自立の道なのだ。

 書くこと、なかでも書いたものを徹底的に推敲することは、内省的な行為だ。曖昧だったことが明瞭になり、知ったつもりになっていたことを、どれほど知らなかったのか知るきっかけになる。
 新しい言語の勉強にうちこみ、その言葉で表現することもまた、内省的な行為だろう。第一言語以外では、修辞による粉飾が難しくなる。堪能でないがゆえにより直截な物言いしかできず、それが結果的に身も蓋もない明快さにつながり、自分がじっさいに何を主張しているのか明々白々になるはずだ。自らのレトリックにほかでもない自分自身がごまかされる、なんてこともなくなるだろう。あるいは第一言語ではないからこそ、率直に言えることだってあるかもしれない。

 表現しようと苦心すること、とりわけ新たな言語でそうすることは、自身のなかのさまざまなことをあきらかにする。これまでは見えなかった一面、新しい自分が顔を出すといってもいい。その意味で「べつの言葉」の習得とは、一種の変身なのだろう。