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プーチン政権によるウクライナ侵攻をきっかけに思ったこと

 プーチン政権によるウクライナ侵攻と、それに対する反応を見て、過去に読んだ本、たとえば『エルサレム〈以前〉のアイヒマン*1、『プーチンユートピア*2、『囚われの魂』*3、『暗い春』*4、『兵士というもの』*5、『アフガン帰還兵の証言』*6、『セカンドハンドの時代』*7、『人生と運命』*8、『20世紀を考える』*9などを連想しながら、つくづく感じたことがある。それは情報に対する姿勢の違いだ。

事実や論証でアイヒマンの判断に影響を与えることができると思う者は、その瞬間にもう敗北している。全面戦争を戦った者にとって討論とは、他のものと同様に単なる武器にすぎない。

ベッティーナ・シュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』p.386、訳:香月恵里

 独裁的な体制は、内外のさまざまな人間を常日頃から情報戦の対象にしている。彼らにとって情報とは、自己正当化や責任転嫁のための武器にすぎない。基準となるのは事実か否かではなく目的達成に役立つか否かであり、必要とあらば作りだすことも厭わない。

 もちろん、嘘を手段として用いる権力者は世界中に存在する。非独裁的な体制も例外ではない。しかし程度や態度には差があり、その差は、少なくとも現時点では無視できないぐらいには大きい。彼我の差を意味あるものにしているのが、制度と報道と民意だ。独裁的な権力者たちは、情報戦によって報道と民意を切り崩し、制度の掘り崩しを企てる(残念ながら、単純に報道や人選の質が低すぎて勝手に崩れていることもある)。

 独裁的な政権が仕掛ける情報戦の狙いは主に3つある。騙すこと、混乱させること、従わせることだ。

 私たちは理解を望んでいる。理解することと理解されることを。言葉にはふさわしい意味があり、真実が含まれていると考えたがる。それは通常、生きていくうえで好ましいことではあるものの、常に好ましい働きをしてくれるわけではない。ときには弱点になってしまう。ひとことで言えば、悪意に弱い。

アイヒマン、そして彼の書いた文章は、経験豊かな人間をも時に誤った結論に誘導してみせる。荷物を「携えて東へ」行くように言われた人間、「虱駆除」の前に、脱いだ服を置いた場所を憶えておくように言われた人間は、それには何か意味があると考える。また、黒い森発の葉書が親戚から来たら、その親戚は黒い森にいて、アウシュヴィッツでガス殺されているとは思わない。同様に我々は、文章や供述を読めば常に自分の経験や知識との関連を求める。意味を求めるのだ。我々は理解したいと願う。そして「世界観のエリート」たちが理解したのは、この「理解を求める気持ち」がたやすく影響を受けるということだった。整合性を求める我々の感情を彼らは利用し、判断力を混乱させ、行動できなくする。

ベッティーナ・シュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』p.503、訳:香月恵里

 平然と嘘をつく、繰り返し嘘をつくなど、人を欺く方法はいくらでもあるが、なんらかの信頼関係を築きながら騙そうとすることが多い。もっとも簡単なのは、騙したい対象の信念や感情に訴えかけることを言い、「そういうことか」「そのとおりだ」「よく言ってくれた」といった反応を誘いだすことだ。偽情報を相手の好む物語に仕立てあげる直接的なやりかたもあれば、相手の好む主張をして信用を得てから偽情報を刷りこむ間接的なやりかたもある。人間は自分の気持ちを代弁してくれる存在に好感を抱きやすい。好感は一種の信頼となって警戒心を緩ませる。「この人が言うなら正しいのかもしれない」と思ってしまうのだ。好感によって取りこまれ、彼らの立場を刷りこまれるうちに、無自覚な代弁者ができあがっていく。自分の気持ちを代弁してくれた人の気持ちを代弁してあげるはめになる。

 このような視点で見ると、一定の信用はあると世間からみなされているであろうテレビ局が、知名度や好感度の高い人間に「評論家」という地位を与え、人の生死や社会の存亡に関わる問題についてまで、報道風の番組で思いつきを好き勝手に語らせている現状が、どれほど危険なのかも想像がつく。

 騙されてくれないのであれば、混乱させる手もある。大量の虚偽を含む情報の洪水で、何が真実かわからない状態に追いこみ、判断を保留させ、行動を停止させる。穏健な人々の「拙速な判断をしたくない」「公平・公正でありたい」という美点を弱点に変えるのだ。両論併記をすればするほど、知らず知らずのうちに間接的な支援者として機能させられてしまう。こうして「流されたくない」という流されかたが生まれる。

 行動の正当化が困難なときに出てくるのが、「○○はどうなんだ?」と対立する側の行為を槍玉に挙げるwhataboutismだ。第三者によるwhataboutismの多くは、バランスをとることを意図した自然発生的なものだろう。しかし、一般的な考えかたとの相性のよさゆえに、whataboutismは戦術として力を持ちやすい。そして、ここでも嘘が有効活用される。相手にわかりやすい粗がなければ、誇張したり捏造したりすればいいというわけだ。

 虚偽情報に際限なくさらされていると、騙される人や混乱させられる人だけでなく、事実ではないと知りながら従う人も増えていく。なぜなら、どんな嘘をどれほどついても罰せられないことは、圧倒的な権力を意味するからだ。こうした形での権力の誇示は、人々を恐怖させたり無気力にさせたりして隷属させるとともに、権威主義的な人を魅了したりもする。

 さらに言えば、嘘に薄々は気づいていても、真実を知ってしまうと責任が生じたり良心の呵責に苛まれたりすることが予想できるため、甘い嘘を信じて「騙された被害者」になることを選ぶ人や、苦い真実を視界に入れない努力を続ける意図的無知(willful blindness)を選ぶ人もいる。彼らはもはや、権力者の作りだした嘘の世界を維持する側に回っている。

 このようにして、独裁的な権力者たちは、自らの悪行を否定・矮小化・相対化・正当化しつつ被害者面をする。悪事などそもそもなかった、たいしたことなかった、相手もやっていた、相手のせいで仕方なくやった、自分たちこそが被害者だ、と。虚偽情報をも駆使した自己正当化と責任転嫁によって、自陣営の強化や敵陣営の弱体化をはかり、優位に立つことを目指すのだ。

 ピーター・ポマランツェフが2014年に出版し、2018年に邦訳された『プーチンユートピア』には、現代ロシアを知るための助けとなる話がたくさん出てくる。その多くは民主主義国家が反面教師とすべきことでもあるだろう。

ロシアは「移行中」の国家などではない……ある種ポストモダン独裁国家であり、権威主義的な目的のために民主資本主義の用語と組織とを利用しているだけである。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.56、訳:池田年穂

テレビこそ、この国を一つにまとめ、支配し、団結させることができる唯一の権力だ。二〇世紀の権威主義よりもはるかにとらえどころがない新しいタイプの権威主義の中枢となる機構である。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.5、訳:池田年穂

現大統領が二〇〇〇年に政権を握ったとき、最初にしたのは、テレビ局を管理下に置くことだった。クレムリンが、「衛星政党」として認めるにはどの政治家がよいかを決めたのも、この国の歴史がどうあるべきであり、何を恐れるか、どんな意識を持つべきかといったことを決めたのも、テレビを通じてのことだった。生まれ変わったクレムリン旧ソ連の二の舞を演じるつもりはなく、二度とテレビ番組を退屈なままにはしない。そのためになすべきことは、ソ連時代の統制を西側のエンターテインメントとうまく融合させることだ。二一世紀のオスタンキノのいくつものテレビ局は、ショービジネスとプロパガンダを混ぜ合わせ、視聴率と権威主義とを結びつけている。そして、偉大なショーの中心にいるのは、大統領自身だった!

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.6、訳:池田年穂

僕がロシアで働いているあいだにも、年を追うごとにロシア政府が誇大妄想的になっていくのに合わせてオスタンキノの戦略もどんどん歪曲されて、これまでになく緊急なものとしてパニックと恐怖を煽る必要があると考えられるようになった。そうなると、論理性は無視され、クレムリンに好都合なカルト集団とか、ヘイトを煽る者たちをテレビのプライムタイムに登場させることで、国民をうっとりさせたり、気を紛らわさせたりした。それにつれて、クレムリンの手助けをし、そのヴィジョンを世界に広めるための金めあての雇われ外国人の数は、いっそう増えていった。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.7、訳:池田年穂

元大統領府副長官、次いで副首相を務め、そののち外交問題大統領補佐官に就任したスルコフは、ロシア社会を一つの巨大なリアリティー・ショーのように演出してきた。(中略)オスタンキノのテレビ局の司会者たちは、スルコフの指示でテーマ――オリガルヒ、アメリカ、中東など――を選び出し、それについて二〇分間話す。彼らはめったに直截的な表現は使わないが、ヒントを与え、煽り、目くばせし、当てこすり、「連中」とか「敵」という言葉が脳裡に刻みこまれるまで際限なく繰り返す。彼らはこの時代のマントラの最たるものを繰り返す。プーチン大統領は「安定」の大統領、一九九〇年代の「混乱と黄昏」の時代に対するアンチテーゼだ。「安定」――この言葉が、うわべでは関係がなさそうな数えきれぬほどの文脈で再三にわたって繰り返されるので、やがて谺となり、巨大な鐘の音のように鳴り響き、あらゆる良きものを意味していると皆が思うようになる。しかり、誰であろうと大統領に反対する者は、偉大な神である「安定」の敵なのだ。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.87、訳:池田年穂

「ロシア・トゥデイ」(RT)で働き始めた人たちは、しばらくすると、何かがおかしいこと、「ロシアの見解」はたあいなく「クレムリンの見解」になること、「客観的な報道などというもの存在しない」という表現の意味するところは「クレムリンが真実なるものを完全にコントロールしていること」だと気づく。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.62、訳:池田年穂

大統領がクリミアを併合し西側と新たな戦争を始めることになれば、RTは先陣を切って、ファシストウクライナを占領しようとしているという、仰天するような話をでっち上げるだろう。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.63、訳:池田年穂

何が起きているかに気づいたジャーナリストは急いで「ロシア・トゥデイ」から立ち去り、自分の履歴書から一生懸命消そうとする。放送中に辞意を表明したり、不満を口にしたりする者さえも現われる。「これ以上「プーチンの手先」として働きたくないんだ」。もっとも、大半の者はとどまる――自身が西側に対する憎悪によってイデオロギー的に突き動かされているために自分たちが利用されていることに気づかない(ないし気にかけない)者や、テレビに出演したいがためにどんなところでも働こうとする者や、「そうさ、ニュースなんて全部フェイクさ。しょせんゲームみたいなもんだよ、違うかい」と深く考えない者。RTは騒ぎ立てた人間を異動させるために離職率がつねに高いものの、新たな働き手には事欠かない。夜になると、新参者たちはスカンジナビアにたむろして、情報工学の専門家やマーケティングコンサルタントといった他の駐在員たちと合流する。安易な相対主義がのんびりと語られる。(中略)「ロシアは始末に負えない――けど、西側だってたちが悪いよね」という言葉をしばしば耳にする。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.65、訳:池田年穂

 一部の政治家への接近や報道の娯楽化に関しては、日本のマスメディア、特にテレビがすでに進んでしまっている道でもある。日本のテレビ局は、ロシアに起こったことを我が身のこととして真剣に受け止め、反省し、軌道修正できるだろうか。

 ロシアのテレビ局で働くプロデューサーたちが下記のように語ったという。

「この二〇年というもの、僕らは自分たちがまるで信じていない共産主義、それから民主主義とデフォルト、マフィア国家とオリガルヒを生き抜いてきたよ。結果、僕らはそれらすべてが幻想であるし、何もかもPRであることに気づいたってわけさ」

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.97、訳:池田年穂

 『プーチンユートピア』の原題「Nothing Is True and Everything Is Possible」が上記の精神を端的に表現している――真実などなく、なんでもできる。なんでもできると思いこんでいた独裁者が、思いどおりにならない現実と、絶対的な権力を失う恐怖に直面したとき、さらなる危機が訪れる。

「何もかもPR」というのは、新生ロシアのお気に入りの台詞になっている。モスクワにいる僕の同業者たちは、自分たちがシニカルでもあり啓けた人間でもあるという気持ちを抱いている。この人たちに、僕の両親もそうだったが、ソ連時代に共産主義と戦った反体制派について尋ねると、彼らはその頃の反体制派を世間知らずの夢想家として切り捨て、「人権」や「自由」のような曖昧な概念への僕自身の西側的執着を世迷い言だと片付ける。「君ら西側の国の政府が僕たちの国の政府と同じように酷いとは思えないのかい?」と彼らは僕に尋ねる。僕は異議を唱えようとする――だが彼らは僕に哀れみの笑みを向けるだけだ。この世界では、何かを信じてそれを支持する人は嘲られ、妖怪変化のような人物が賞賛される。

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.97、訳:池田年穂

 以前『プーチンユートピア』を読んだときに感じたのは、情報操作・人心操作されることの恐ろしさだった。しかし『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』などを経て再読した今、より強く感じるのは、情報操作・人心操作することの恐ろしさのほうだ。

 絶え間ない情報操作や人心操作は、操作される側だけでなく、操作する側にとっても危険なのではないか。安易な相対主義で自己正当化しながら、「操作したい」という欲望に操作されるうちに、現状認識や現実感覚が歪み、良心が麻痺していくとしたら……。その先に待っているのは、周囲を巻きこむ自己破壊だろう。

 以下の言葉が不吉な予言のように響く。

悪夢もくり返し吹きこまれれば、いずれは感染力を持つようになる。というのも、今もロシアのメディアや国営企業で働いているかつての同僚たちと話をすれば、聖なるロシア云々という話はただのPRだと笑いとばすかもしれないが(なぜなら、すべてはPRだから!)、なんとその勝ち誇ったような冷笑が意味するのは、いたるところに陰謀がひそんでいると彼ら自身惑わされている可能性もあるってことだ――みんな嘘だし、動機はどれも腐敗したものであり、信じられる人間は一人もいないとしたら、それすなわち、すべての背後に闇の手が存在するということになりはしないか?

ピーター・ポマランツェフ『プーチンユートピア』p.300、訳:池田年穂

言葉の中でこそ、道徳的世界が最終的に死滅する可能性がある。思考が一旦そうしたカテゴリーに入り込んでしまえば、殺人が行われるのを、議論の力でとめることはできないだろう。

ベッティーナ・シュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』p.374、訳:香月恵里

 私たちは嘘に弱い。だから権力者たちは嘘をつく。私たちはwhataboutismに弱い。だから権力者たちはwhataboutismを駆使する。それを熟知しているのが、独裁的・強権的な権力者とその側近たちだ。彼らは人間や社会の脆弱性を利用することにかけては一種の専門家であり、あの手この手で彼らにとっての「役に立つ馬鹿(useful idiot)」を作りだしていく。まるでDDoS攻撃のごとく、人々の隙を見つけて侵入し、踏み台にして、特定の社会や集団や個人を攻撃するように仕向け、機能不全に追いこもうとする。信じやすい人や信じたがる人が取りこまれ、良識派を自負して自浄作用の役割を果たすつもりの人が眩惑され、信じない人も検証に時間を奪われていく。この発信戦略の特異な点は、各人各様の世界観に適合する多種多様な主張を喧伝できてさえいれば、各主張の内容が粗雑でも主張同士に整合性がなくても、ある程度の効果が出つづけるところだろう。受け手の軽信性と想像力が勝手に穴を埋めてくれることまで計算済であり、あらかじめ戦略に組みこまれているのだ。

 こうした悪意ある発信に対抗するために必要なのが、国際機関や独立した報道機関などによる監視と検証だ。しかし監視や検証が事実上不可能なことも多く、可能なことであっても発信のほうが低コストなため、真相を究明できない状況が生まれやすい。そうなれば悪意ある発信の効果が強まってしまう。

 結局のところ、偽情報を武器に悪意ある発信を繰り返すような国から公式に出てくる情報は、それ相応の扱いをするほかない。むろん、どちらの側も情報戦をしている。それはそうだ。戦争中はなおさらそうなる。しかし独裁的な体制は平時からいわば戦時状態であり、もともとひどかったものが戦争でますますひどくなるのだ。それが程度や態度の差であり、その差は無視できるほど小さいものではない。

 プーチン政権の嘘はとどまるところを知らない。あまりにも嘘をつきすぎて、もし事実が含まれていても相手にされにくい段階まできてしまった。仮に和平をする気があるとしても、ロシア側の信用のなさが和平の早期実現を阻み、そのあいだにも数多くの人が殺されてしまうだろう。ロシアの重ねる戦争犯罪が、ただでさえ困難な和平をいっそう困難にするだろう。ロシアの侵略に対してウクライナの人々が怒るのは当然であり、その怒りから不法な報復行為が一部で発生してしまうことは避けがたいだろう。ロシア政府の度重なる嘘が検証を妨げ、証拠が出ても受け入れない人を増やすだろう。どれもたやすく予想できることではあるものの、防ぐ方法はほとんどない。

 悪事への批判に対して「○○はどうなんだ?」と言いたくなったときは、「そもそも○○は事実なのか?」「仮に○○が事実だったとしたら、悪事が正当化されるのか、それともどちらもそれぞれに悪事なだけか?」と考えよう。誰かの悪行をきっかけに自分たちの言動を省みること自体は、おかしなことではない。誠実な行為であり、より信頼に値する存在になれば嘘の力に対抗しやすくなる、という意味でも必要なことだろう。しかし、誰かの悪行、とりわけ進行中の悪行を相殺するかのような形で語るのは、やめたほうがいい。

 侵略はいけないという原則に立ち返ることが必要だ。ウクライナウクライナであり、ロシアでもなければアメリカでもないことを思いだそう。「拙速な判断をしたくない」との気持ちは、出所や真偽の怪しい煽動的な画像などに飛びつかないことに活かし、「公平・公正でありたい」との気持ちは、プーチン政権とロシア人・ロシア系を同一視しないことに活かせばいい。侵略と差別に反対しよう。

*1:ベッティーナ・シュタングネトの著書。裁判での印象に偏りがちなアドルフ・アイヒマン像を覆す力作。

*2:ピーター・ポマランツェフの著書。現代ロシアを知るのに役立つ。なお、『プーチンユートピア』の後に『嘘と拡散の世紀』が邦訳されたものの、著者名のカタカナ表記が異なるため気づきにくいかもしれない(前者は「ポマランツェフ」、後者は「ポメランツェフ」)。

*3:チェスワフ・ミウォシュの著書。ソ連の影響下でスターリン主義となったポーランドにおける、知識人たちの経験をもとに書かれたもの。単純な出世主義や保身とは違う、より複雑で微妙な形をとる体制順応主義、知識層を捕らえる正統性や権威の魔力についての分析。

*4:ヘダ・コヴァーリ(ヘダ・マルゴリウス・コヴァーリ)とエラジム・コハークの著書。英語版『The Victors and the Vanquished』からの重訳で、第1部がコヴァーリの回想録「勝者」、第2部がコハークの論考「敗者」。チェコスロバキアプラハに生まれて2つの全体主義を経験した2人が、ソ連の率いるワルシャワ条約機構軍によって「プラハの春」が弾圧されるまでの人生や社会状況を個別に語っている。なお、トニー・ジャットが推薦していたコヴァーリの回想録『Under a Cruel Star』は、未邦訳との話があるものの、WorldCatで調べると『The Victors and the Vanquished』の第1部も『Under a Cruel Star』も原書は『Na vlastní kůži』のようだ。ただし、英訳者や出版年の違いはあり、後年に出た『Under a Cruel Star』は加筆・修正されている可能性も否定できない。

*5:ゼンケ・ナイツェルとハラルト・ヴェルツァーの共著。捕虜となったドイツ軍兵士の盗聴記録を分析することで人間観の更新を迫る労作。

*6:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著書。アフガニスタンから帰還したソ連軍兵士の証言集。増補・新訳版『亜鉛の少年たち』が岩波書店から刊行予定。

*7:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著書。ソ連に翻弄されソ連崩壊にも翻弄された人々の声。

*8:ワシーリー・グロスマンの著書。2つの全体主義反ユダヤ主義を人間・作家・従軍記者・ユダヤ人として生きた経験にもとづく長編小説。

*9:トニー・ジャットとティモシー・スナイダーの共著。歴史学者の2人がジャットの人生や20世紀の歴史を語り合いながら21世紀を考える。

早朝の散歩

 時間が時間なので、まだ薄暗く人通りはほとんどない。あかりのついた家から楽しげな歌声が聞こえてくるものの、耳をすまさずに通りすぎる。なだらかな坂をのぼりながら、出窓に大スフィンクスのごとく陣取る猫に目をやる。いつも同じ場所で同じ姿勢のまま微動だにしないため、ぬいぐるみ疑惑が強まりつつある。

 朝焼けをしみじみと眺めるつもりで高台につくと、木々に鳥がたくさん集まって鳴いており、元気いっぱいの合唱ぶりに思わず笑ってしまう。遠くの花壇からはハチドリか何かが飛び去っていった。

 帰宅後に検索したところ、日本の自然環境にハチドリは生息していないとのこと。飼育施設からの脱走といった例外的な状況を除けば、国内で目撃される「ハチドリ」は、スズメガの仲間を見間違えたものだったりするそうだ。ハチドリどころか鳥ですらなかったのかもしれない。

本という扉を開いて――『フジモトマサル傑作集』

書名: 『フジモトマサル傑作集』(青幻舎)
著者: フジモトマサル

 『フジモトマサル傑作集』は、漫画・随筆・回文・なぞなぞといった、彼のさまざまな仕事をまとめた作品集。フジモトマサルの世界を概観しながら、単行本未収録作品にも触れられる1冊となっている。なお、『フジモトマサル傑作集』に収録されなかった『いきもののすべて』については、本書の出版前に復刊されており、そちらで読むことができる。

 全12回の随筆「回想の再読」シリーズがとてもおもしろかった。出色は「霧の中のロンドン」。そこで語られているのは、ある短編小説のことだ(ここからは「霧の中のロンドン」と短編小説の内容に踏みこむので、知りたくない人は続きを読まないほうがいい)。

 舞台は二十世紀初頭のロンドン。主人公の男はこれまで何度か、石畳の路上で不思議な扉を見た。あれはなんなのか、その向こう側には何があるのか、深く興味を抱くのだが、翌日にはもうなくなっている。
 ある夜、男はその同じ扉を再度見かけた。今こそチャンスだ。そう決心し、近づいて扉を開ける。
 そしてその結果……物語は意外な結末を迎える。

「霧の中のロンドン」、『フジモトマサル傑作集』p.214

 このようなあらすじの小説を幼少期に読み、ことあるごとに思いだしては読みかえしたいと願っていたものの、検索しても結局わからずじまいだったという。

 どんな物語なのか気になったので、自力で探すことにした。試行錯誤しながら検索したところ、それらしき短編を見つけだすことができた。作者はH・G・ウェルズで、作品名は『The Door in the Wall』。邦訳は多数あり、現時点で新刊購入しやすいのは、岩波文庫の『タイム・マシン 他九篇』(「塀についた扉」として所収)、創元SF文庫の『タイム・マシン』(「塀についたドア」として所収)、角川文庫の『タイムマシン』(「くぐり戸」として所収)あたりだろうか。他にも「塀とその扉」「塀のある扉」「塀にあるとびら」「くぐり戸の中」「白壁の緑の扉」「幻影の扉」といった邦題でさまざまな本に収録されているそうだ。

 じっさいに読んでみると、たしかに印象深い作品だった。私もまた、今後の人生で折に触れて思いだすことになるのだろう。ふと思ったのは、「幼いころに見た扉を探す登場人物」と「幼いころに読んだ小説を探すフジモトマサル」が重なるということと、あまりにも重なりすぎるということ。この小説を探しあて、その扉の秘密を知ると、「霧の中のロンドン」に込められていたかもしれない意味が浮かびあがってくるように見える――そんなことを考えていたら、フジモトマサルの描く不思議な世界に迷いこんだ気がした。

ジャット/スナイダー『20世紀を考える』

書名: 『20世紀を考える』(みすず書房
著者: トニー・ジャット、ティモシー・スナイダー
訳者: 河野真太郎

 『20世紀を考える』は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患した歴史学者トニー・ジャットが、おなじく歴史学者のティモシー・スナイダーを聞き手として、縦横無尽に語る刺激的な対談録。なお、この対談が収録されたのは2009年であり、文字起こしや編集作業を経て原書は2012年に出版されたが、ジャット自身は2010年に亡くなっている。

 序文でスナイダーが言うように、本書は歴史書であり伝記であり思索の書でもある。また「対話の力を主張するものであるが、おそらく読書の力をより強く主張するものでもある」(p.7)。キーワードは、「歴史に学ぶ」「知識人の責務」だろう。

 「歴史に学ぶ」に関しては、それがいかに重要でどれほど困難か、学ばなければどうなるかがよく伝わってくる。
 人類は予知能力など持ち合わせておらず、未来を予測するためには過去から学ぶしかない。歴史という先人の経験から学ぶことで、うまくいけば同じ危機をくりかえさずにすむようになる。もし歴史から学ばないとすれば、自分たちの経験から学ぶしかない。そうすると、危機は避けがたいものになってしまう。それどころか、何かの価値を痛切に実感させるにはむしろ危機が必要、なんてことにもなりかねない。破局的な危機さえもだ。そうならないためには、やはり歴史から学ぶべきなのだ。
 しかし歴史に学ぶなら、私たちが歴史から多くを正確に学ぶとはとても言えないだろう。えてしてほとんど何も学ばないか、あるいは重要な文脈をとりはらった、ときに有害ですらある「教訓」を引きだしたりするのだから。
 さまざまな予測を的中させるジャットの洞察力に唸らされながら、どうしても思わざるをえなかったのは、人類が歴史に学ばず似たような失敗をくりかえしつづけるがゆえに予測できるということと、仮に予測できたとしても大きな流れを変えられるわけではないということだ。この認識がおおむね正しいとしたら、結局のところ、危機はときどき必要か、いずれにしてもほぼ不可避なのではないか。

こんにち、わたしたちは貧困、不公正、病気に対する美学的な嫌悪感をいまだに経験していることはたしかですが、わたしたちの感性は、かつて第三世界と呼び習わしていたものに限定されることが多いのです。わたしたちは、インド、サンパウロのスラム、またはアフリカのような場所での貧困と経済的な不公正、不公平な分配のまったき不正を意識しています。しかし、シカゴ、マイアミ、デトロイトロサンジェルス、またはさらにはニューオーリンズのスラムにおける、それと比較可能な資源と生活機会の不公平な分配には、はるかに鈍感なのです。

『20世紀を考える』p.519

国家がなにかを供給する必要があるということを人びとに納得させるには、危機が必要なのだと思います。その供給がないがゆえにもたらされる危機ですね。総体としての人びとは、自分たちが時々しか必要としないサーヴィスがつねに利用可能な状態にされるべきだということは、けっして信じないでしょう。それがそういった人びと自身にとって利用できず、不都合を引き起こすときにのみ、普遍的な供給の必要性を訴えることができるのです。

『20世紀を考える』p.555

極端に機能不全の収入体系や資源分配の形式をもっている社会の経済は、社会的な不安定によって最終的には脅かされると、何度も何度も示され、証明されてきました。ですから、それ自身の機能不全のロジックをあまりつきつめないことは、経済にとってよく、労働者にとってよいというだけではなく、資本主義という名の抽象にとってもよいことなのです。

『20世紀を考える』p.552

 わたしたちが民主主義と結びつけるような美徳を最大化させた国民の歴史を見てみると、最初に生じたのは立憲制、法の支配、そして三権分立であることに気づきます。民主主義というのはつねに最後に生じる要素です。(中略)ですから、民主主義が出発点だと言ってはいけないのです。
 民主主義と、秩序だったリベラルな社会との関係は、過剰な自由市場と、うまく統制された資本主義との関係とおなじです。

『20世紀を考える』p.448

民主主義体制は非常に急速に腐食します。それは言語的に、もしくは言ってみればレトリック的に腐食します。それが言語をめぐるオーウェルの論点ですね。民主主義体制が腐食するのは、ほとんどの人びとがそれについてあまり気にとめないからです。

『20世紀を考える』p.449

政治的リアリズムと道徳的シニシズムを区別する細い分断線を横断するのは簡単なのです。そしてそれを越えてしまった代償としてやがてもたらされるのは、公共空間の腐敗なのです。

『20世紀を考える』p.467

つぎの世代でわたしたちが直面する選択肢は、資本主義か共産主義か、または歴史の終わりか歴史の回帰か、ではなく、集団的な目的にもとづく社会的な結束か、それとも不安の政治による社会の腐食か、というものになります。

『20世紀を考える』p.559

 ジャットの考える「知識人の責務」とは、重要な真実を明快に語ることだ。それも人びとが聞きたがらない類の真実を。過去の出来事を濫用したり抹殺したりしようとする世の中の動きを何度となく正す、シーシュポス的な仕事もそこに含まれる。そうした知識人の役割を現代において果たしたのは調査報道を担うジャーナリストである、との指摘は鋭く、ジャーナリストという仕事の重要性とその責任の重大性を思いださせてくれる。
 知識人たちは今後、長きにわたる取り組みの結実として確立したもの――たとえば自由や人権――をいかにして守るのか、より悪い世界をどのようにして避けるのかを問われる状況に直面するだろう、とジャットは言う。制度の成り立ちを理解して必要なら守ること、それは「知識人の責務」であり「歴史に学ぶ」の実践でもある。

 人類は際限なく相争う無秩序な状態を脱し、他人を信じて頼ることで社会をつくり発展してきた。社会の基礎は信頼であり、その信頼を個々の人間関係から共同体全体へと拡大するために、さまざまな制度を築いてきた。それにもかかわらず昨今は、信頼を掘り崩したり制度を骨抜きにしようとしたりする話が多方面から聞こえてくる。しかもそれを率先して行なっているのが、よりによって政治家や官僚であり、みずからの正統性と社会の安定を損ないながら、そのことに気づいていないか気にしていないのだ。そこで本来は知識人やジャーナリストの出番なのだが、正直なところ彼らが頼りになるとは言いがたい。能力があり勉強もしている人はしばしば影響力が足りず、影響力のある人はしばしば能力や勉強が足りない、という深刻な状況だからだ。

 はたして私たちは危機をくりかえさずにいられるだろうか?

ナイツェル/ヴェルツァー『兵士というもの』

書名: 『兵士というもの』(みすず書房
著者: ゼンケ・ナイツェル、ハラルト・ヴェルツァー
訳者: 小野寺拓也

 膨大な捕虜盗聴記録の分析によって人間観の更新を迫る労作。

 戦争中の兵士が残虐行為を思いとどまったり押しとどめたりすることは、現実的にどれだけ可能だろう。命令・任務・帰属意識・復讐心・恐怖心・マチスモなどがほぼすべてアクセルであり、場合によっては教育・報道・時代精神さえアクセルであるときに、個人はブレーキとしてまともに機能しうるだろうか。
 そういった疑問への答えを盗聴された会話から導きだし、兵士というものを丹念に見ていくことで、「人間性」「人間味」「人間的」「人間らしさ」のような言葉における「人間」とは違う、あるべき姿でもありたい姿でもない人間というものが見えてくる。