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漫画・映画『この世界の片隅に』

感想

この世界の片隅に』のネタバレがあるので、知りたくない人は読まないように。

漫画『この世界の片隅に

一行要約

  • 戦中とその前後の日常を舞台にした良作

 善良でどんくさいが鋭いところもある個人の生に、戦争が絡んでくる作品。作中には日常生活の場面がたくさん出てくる。すずとその家族の暮らしには、さまざまな苦労がありつつも笑いが絶えない。悲しみや苦しみばかりでなく、喜びや楽しみもある。むしろ笑いのほうが多いくらいだ。しかし戦況が悪化するにつれて、それも変わってしまう。
 死がむごたらしく直接的に描写されることはほとんどない。たいていは消えるように死ぬか、道端の死体として描かれる。戦争における人間の好戦的側面も基本的に出てこないし、兄やリンの空想的「伏線」からは独りよがりな世界の狭さがかいま見えもする。
 しかしそれは銃後の、女性参政権すらなかった時代の、子供から大人になる年齢の個人をとおして見た世界や心象風景というコンセプトによるものであり、まさに「この世界の片隅」を表現しようとした結果なのだろう。

 世の中は偶然に満ちている。何かを選ぶとは、他の可能性を選ばないこと、賭けてみることだ。ときには誰かの夢が誰かの悪夢になったりもする。傍から「幸福」「幸運」に見えるものが、当人にとってもそうだとはかぎらない。その人にはその人なりの事情がある。その人にしかない記憶も。人間は記憶の器で、誰かや何かの断片で構成されている。そしてすべてを失う定めの、死にゆく存在でもある。語り伝えなければ、死とともに記憶もまた消えてしまう。
 『この世界の片隅に』は、わかりきってはいても忘れがちなことを、笑いをまじえながらしっかりと描いている。 

次の1作

 原作を読みながら連想した作品を紹介する。必ずしも内容が似ているわけではない。

  • 坂口尚『石の花』(講談社 愛蔵版全4巻 文庫版全5巻、光文社 全3巻)
  • エマニュエル・ギベール『アランの戦争』(国書刊行会
  • エヴゲーニヤ・ギンズブルグ『明るい夜 暗い昼』(集英社 文庫版全3巻)
  • スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『死に魅入られた人びと』(群像社
  • ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』(新潮社)
  • イレーヌ・ネミロフスキー『この世の富』(未知谷)
  • ノダル・ドゥンバゼ『ぼくとおばあさんとイリコとイラリオン』(未知谷)

映画『この世界の片隅に

数行要約

  • 大きな変更点がある
  • その変更点は残念ながら好みではない
  • 映像と音の力はすごい

 やはり気になるのは原作との違いだ。まずはそれを語ることにする。

 リンの描写がばっさりと削られた。
 すずや周作にとってリンは、哲と同じように、ありえたかもしれない別の人生を想像させる、身近で現実的な存在だ。時代が違えば、戦争になっていなければ、あるいは戦争が早く終わっていれば、あのときこうしていれば……というように。過去を掘り下げれば掘り下げるほど、いろいろな可能性が見えてくる。けっして一本道ではなかったからこそ、あのセリフが意味をもつ。
 リンはまた、「それでは北條家にとってはどういう存在だったのか?」など、さまざまな連想を生むキャラクターでもある。できれば削らないでほしかった。

 「この国から正義が飛び去ってゆく」「暴力で従えとったいう事か」「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」「それがこの国の正体かね」といった、すずの重要なセリフが大きく改変された。
 まさかこのシーンが大幅に変更されるとは思わなかった。
 これは単に己の無力さを痛感するだけの場面ではない。非道な暴力に屈したことで正義が飛び去っていくと感じたその直後、もとより正義対悪ではなく暴力対暴力にすぎなかったことに気づく瞬間でもあるのだ。暴力を、空襲というわかりやすく残虐な形で示されつづけたあの暴力を、自分たちの側もまた誰かにふるっていたのだ、と。そしておそらく、自分自身の世界観、依拠してきた価値観、堅固だと信じていた足元が揺らぎ、いったいみんな何のために戦ってきたのか、何のために犠牲になり、何のために耐えてきたのかを思って泣き崩れる。だからこそ「うちも知らんまま死にたかったなあ……」とさえ言うのだろう。ただ戦争に負けただけでなく精神的にも打ちのめされた、どん底の描写なのだ。少なくとも私はそう解釈したし、言うなれば漫画『デビルマン』のあのシーンと同じくらい変えようがないと思っていた。それがああなるとは……。三井がバスケをしたがらないレベルの改変なのでは?
 周作とリンの話が省略され(つまりすずが彼らの関係を察する描写がなく)、玉音放送後のセリフが変更された結果、すずがときおり見せる明敏さも霞んだ。前者は時間の制約で仕方ないのかもしれない。しかし後者は、制作上の都合ではなく意図的なものだ(どういう意図かは「ネタバレ注意!「この世界の片隅に」片渕監督SPインタビュー【後編】 | WebNewtype」で語られている)。この一連の改変で、すずがより幼く無垢になり、戦争がより戦災的になってしまったと感じる。

 原作の「記憶の器」という表現が「笑顔の入れ物」に変わっていた。
 楽しみや喜びだけが記憶ではない。甘みだけが味ではないように。それゆえに「わたしのこの世界で出会ったすべては わたしの笑うまなじりに」で終わらず「涙する鼻の奥に 寄せる眉間に ふり仰ぐ頸に 宿っている」と続くのだ。「記憶」が「笑顔」になるのは、たとえば「彼女に与えられた悲しみも喜びも、わたしは常に自分の生活、自分の運命の有機的な一部として受け止めてきた。」(エヴゲーニヤ・ギンズブルグ『続々 明るい夜 暗い昼』p.176、訳:中田甫)が「彼女に与えられた楽しみも喜びも、わたしは常に自分の生活、自分の運命の有機的な一部として受け止めてきた。」になるくらい違和感がある。
 原作に「晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない」とあるので、「晴美との記憶」を「笑顔」とすること自体はおかしくない。しかし晴美はかけがえのない存在でありながらも、「この世界で出会ったすべて」ではなく、あくまでその一部なのだ。「(晴美さんの)笑顔の入れ物」という言葉を使うなら、「記憶の器としてこの世界に在り続けるしかない」ことを語ったうえで、それに続ける形にしてほしかった。ただし別の表現で補完されていたのを聞き逃した可能性はある。

 それはそうと、メディアの違いが大きいとはいえ、原作を凌駕していると思う部分もあった。やはり映像と音の力は怖いくらいすさまじい。特に音を全身で感じられたのは大きかったし、劇場で見たのは正解だった。

 整理すると、映像や音などはよくできていると思うものの(あるいはむしろそうであればこそ)、よりよいものにできないのなら重要なシーンやセリフをわざわざ改変しないでほしいということだ。コラムやインタビューを読めば、原作の映像化を自ら望み、資料をあさって考証に励みながら制作に打ちこんできた、並々ならぬ熱意が伝わってくる。しかしなぜ原作に忠実でいられなかったのか。能力も情熱もあり、じっさいここまでのものをつくりあげたにもかかわらず、複雑さを単純化する方向に変えてしまったのが残念でならない。原作を特徴づけている苦みは、映像化に際して捨てるべき灰汁ではなかったと思う。

 なお、映画版でも原作同様に登場人物が方言でしゃべっているため、音声のみでは言葉の意味を理解しにくいかもしれないと考えて、字幕つき上映の回を選んだ。もちろん字幕で表示されるのも方言なのだが、あるとないではずいぶん違って、おかげでとてもわかりやすかった。現代的かつ標準的な日本語しか出てこない作品でも、聞きとりづらく感じることはあるので、字幕つきで上映される邦画が増えてくれるとありがたい。